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山城國企画《日本派政治活動家★西村齊》            

檄文

一 公の為に私を利用する。これが大人で、逆に私の為に公を利用する。これが小人です。小人は何よりも命が大事なので体が滅ぶと終わると思っており、大人は体が滅んでも魂は生き残り誰かの体を借り生き続けるという思想なので臆することなく損か特で行動することなく嘘か誠かで行動する。

二 本来は忠義(私より公)のために行動するものだが、結果が出るか出ないか?ばかり考えて結局何も行動することなく終えてしまう人が多い。
行動によって何かが変わる可能性が高かろうが低かろうが、自分に火の粉が降ってこようがこまいが、結果などを考えずに自分が行動するこれが忠義です。誰かが始めるのを待つのでなく全ては自分の行動によって始まるという心意気こそ「草莽崛起」です。忠義というのは行動であって結果でない。

三 今までの逮捕の件でも「怒り」とかはなく関係者を「諌めてあげたい」という心境です。これは行動に対して、節義(受忍限度はありますが、法に触れようが触れまいが正しいと信じた道を曲げない)に背かず自分が納得し、何ら先祖に対して恥じる事がないと認識している証拠です。要するに安心立命です。(思想や実践により到達する不動心、天が自分に与えた仕事をまっとうするという意味です)しかし、社会を良くするための手段としての法律が逮捕することが目的となっている。

四 余り口に出したくはないのですが、今まで僕は活動の中で、とある窮地に追い込まれたとき、自分の役割である問題提起行動について、万が一、生きて活動するより死んだ方が問題提起成果が出る見込みがあれば自分の役割のために死ぬべきだと言う思想です。その行動によって国民の中から何人かでも社会の不条理に対して立ち上がる人間が出てきたなら意味の無い無益な死でなく、世の中に役に立つ有益な死だと思っています。
逆に生きた方が死ぬより問題提起効果が出せる自信があるならば、恥をかこうが、へばりついてでも生きて活動すべきだと思います。よく、命を張れ!命を張っている!と大して何もしない人がよく軽々しく口にしますが、発言の信憑性を判断する基準は、何時、誰が、どういう状況の立場に置かれている時に、口にしたかが重要であって、大したも行動せず特別災難を受難していない人が言ってるのは自分を飾るアクセサリーにしているだけで聞く価値もありません。小さなことも出来ずに大きいことが出来る道理はありません。これを論語読みの論語知らずと言います。知行合一、言行一致でないと意味ありません。

五 社会のために正義を貫こうとすると、色んな弾圧を受けるが全て自分が動いた為の原因であって結果で、世間の様子を伺って、目に見える損得だけを考えて自分が動かなかったら弾圧も受けることはなかった。しかし、リスクを犯してでもやらなければならない場合がある。人に魁て、行動すれば必ず受難がある。この受難を正道で跳ね返してこそ行動が成熟するのです。これが「事上練磨」です。

六 いつの時代でも正論に沿って行動する人は周りからみれば煙たい存在。必ず保身しか考えてない人からの誹謗中傷もあります。自己犠牲やリスクを払って社会のために勇気を出して行動している人に対して、必ず、道理ない揚げ足を取って排除しようとする人が出てきます。悪口、陰口を叩き、形だけを見て真理を見ず、小さな事を大げさに騒ぎ立てて批判する。しかし、そういう大義に基づいて行動している人に対してそういう仕打ちをすると、批判した人には、ろくな未来はないというのが歴史上明らかです。なので放置でOKです。歴史上必ず、批判する理由は、こいつらは「私欲」で行動しているというレッテルを貼り、人を貶めようとする手法だそうです。これは悲しいことに自分がそうだから、自分のレベルに応じてしか物事を理解出来ないからだそうです。

七 日本人の心の基盤は「死者の目を意識して生きる」ということです。先祖、英霊です。俗世間(求道・修行に無関心で歪んでいても社会の習慣に従い欲っぽい人間)など気にしていて正義の行動は出来ません。
イエスでもあまりにも激しい言葉を発したために弟子が離れていった。
松蔭も過激思想なので人が離れていった時期がある。晋作、久坂も一時期離れた。最後までブレずについて行ったのは二人だけです。(野村靖と入江杉蔵だけです)

八 天に対してやましいことがなければ、それでいいんです。我らの行動の評価は今すべきではなく、せめて数年後、極端に言えば我らの棺の蓋がしまったあとに、残った人達が評価すればいいのです。本当の意味で評価できるのは「天や地の神様だけです」一番大事なのは、自分の信念に一点の曇りが無ければ神のご照覧に委ねればいいと思います。思い切ってやることです。間違っていれば、あの世に行ったときに罰を受けますし、間違っていなかったらパラダイスでしょう。神に委ねればよいのです。恐れ多くも何ら行動せず俗世間の損得で生きている上に、身分も明かさず安全地帯で吼えている人間が評価するべきことではありません。

九 日本をまともに戻す方法は、歴史に学び「尊皇攘夷」だと思います。尊皇とは日本国民の心を誰もが納得できる一点に集中するしかないと思います。誰もが納得する一点といえば天皇陛下です。天皇陛下の他にありません。攘夷とは他国の侵略に立ち向かうことです。これは何でもかんでも外人を叩き出すいうのでなく、侵略者を叩き出すという、ただ国益をも守ろうとする当たり前の思想です。差別でもなんでもありません。問題は単純で、これに反旗を掲げる人間は朝敵認定して排除すればいいのです。反日が根拠なくてもレイシスト認定するなら此方は根拠ある朝敵認定して戦えばいいんです。

十 僕の事を気の毒に思っておられる人もいると思いますが、そんな事より行動してくれた方が嬉しいです。
僕は日本が滅びていくのを黙って見ているよりは、人に何を言われようが信念の基に行動してるだけです。「かくすればかくするものと知りながらやむにやまれず大和魂」で、こういう行動をすれば受難があるかもしれないと思っても、自然と体が動くのです。

十一 松蔭は死後までも世間に敬遠され、長州藩の役人伊原そんえもんという輩は「若者の暴発程度」である。今後は松蔭のような輩はもっと徹底して取り締まらなければならないとまで言ってます。しかし、明治維新後には手のひらを返し、松蔭の門下生だというだけで藩政府から重用された。そして再度、松蔭批判に転じて正式に偉業を讃えられたのは明治15年からです。世間の評価なんてそんなものです。だから評価など気にせず、公と義(正道・勇気によって発動されるもの)に反せず、先祖に恥ずかしくない行いならやるべきです。

十二 騎士道には貴族とか生活に余裕があるとか、仕事の時間が調整できるとかの人は無償で社会への役割を負うべきだという思想があります。これが日本式に言えば、仁(弱者や目下の者への優しさや配慮)です。

十三 知識や教養ばかり習得しても、義(正道)や勇(強さ)を行うときに知識、教養が頭をよぎり損得を考えてしまい行動を躊躇するのがよくある。あくまでも知識教養は行動するためのもので、行動しない人は思想がないのと同じです。

十四 節義(法に触れようが触れまいが正しいと信じた道を曲げない)をもって行動すべし。どんなに才能があっても節義が無いと社会に貢献できないし、正義を貫くことは出来ない。これを行うものは少しくらい迷惑かけても名誉が傷つくことはない。
しかし、法に背くにも受忍限度がある。

十五 本当の仁とは自分の手を汚さず高みで見物してるのでなく自らが汚れ仕事をして奉仕する事。

十六 武士道の7つの徳目には考(家族を守る)が入っていない。これは社会を守ることが結果として家族も守ることが出来るからです。なので単純に家族がいるから行動できないと極端に言い過ぎるのは私であり公ではない。行動できない言い訳、逃げ道に使ってはならない。

十七 表向きの戦いに負けても正義を貫いたなら勝ったのと同じで、不名誉な事で勝っても負けである。不名誉で恥知らずは最も、かっこ悪い。

十八 これは、現在、日本が貶められている色んな問題に言える事ですが、「国の名誉が傷つけられたら、例え国が傾いても正義を貫くことである」(南洲翁遺訓)こういう胆力がある政治家は存在しない。しかし、嘆いてばかりでなく、自分たちから政治家を輩出する行動が必要である。

十九 大義、忠義の為なら自分の人生を棒に振る位の意気込みで行動する。それが精一杯命を使うことである。

二十 賊は話し合っても無駄である。そういう時期は、とっくに終わっている。論点をそらし、質問、真理から逃げて、真理に目を背けて怒りの声を上げている形だけを批判し、差別だ!日本人らしくないというような道理ない屁理屈しか言わない。
こういう情報操作に騙されずに、臭い物に蓋をせず大義ある大人の喧嘩をしなければならない。既存保守らが、そのロジックに怯み、それが出来なかったから日本が、ここまで貶められているのである。














by 99jounokai | 2013-11-23 18:27
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